軒下に宿る伝統

アルバム09年11月17日「軒下に宿る伝統」を追加

この町の中心は観光客で賑わっているが、ガソリンスタンド巡りに名所旧跡は無縁のものだ。混雑を避けてさっさと通り抜けてしまおうとしたとき、道路地図の妙な位置にENEOSのマークがついているのを見つけた。国道でもバイパスでもなく、ちょっと入り込んだようなところに給油所がある。市街地の中のそんな場所には魅力的な給油所がひっそりと営業していることが経験的に多い。やや細い通りを入っていくと、予想通りこの給油所が見えてきたのでうれしくなった。

私は重厚なキャノピーよりも、折り鋼板で作られた軽量なもののほうがだんぜん好きだ。キャノピーがしつこいと、給油所の建物そのものの持つ魅力が台無しになってしまうからだ。この給油所はその点で申し分ない。キャノピーのジグザグな断端と支柱、それに建物が角張った様子は、どことなく戦国時代の山塞を連想させるものがある。わざわざ片方だけ点けてある照明はさながら篝火のようだ。

この給油所は三差路の突き当たりにあって、倉庫などを含めると敷地は結構広い。洗車スペースは道を挟んで反対側の角にあるので、まるで給油所の中に三差路があるようにも見える。近くに郵便局があるからか、ちょうど集配に出ていた郵便局のライトバンやバイクが戻ってくる時間にあたってしまい、つぎつぎと途切れることなく帰庫前の給油にやってくる。なかなかカメラを取り出して撮影のお願いをしに行くタイミングがとれず、かれこれ15分以上しばらく離れたところから様子を見ていることになった。

あらためてよく見ると、全体の雰囲気もさることながら、なんといってもこの中二階のような軒下の構造が目を惹く。そこに部屋が取れるほどの高さもない。最初は平屋だったところにキャノピーを作ることになり、クリアランスを確保するためにこの部分を作って軒を上げたものだろうと思われる。その結果この箱形の構造が造られたようだが、その高さの全体に対する比率といい、側面に作られた通気窓の様子といい、どことなく京都の町屋の低く造った二階の軒下に通じるものを感じてしまった。
最初の印象で山塞のようだと感じ、よく見て町屋の軒下にも通じるようだとはずいぶんと飛躍した連想をしているようだが、この町の地理的な位置や歴史を考えれば自然なことだ。その土地の人がつくった造形には無意識に「土地の記憶」が出てしまうからだ。

裏手の倉庫の脇には珍しい構造物が残っていた。これはガソリンや灯油の輸送が、タンクローリーではなくてドラム缶によって行われていた当時の遺構だ。ドラム缶を積載したトラックをバックさせてこのスロープに入れると、荷台の高さがちょうど地面と同じとなるので、効率良くドラム缶の荷降しができるようになる。このような構造がまだ残っているのはめずらしい。奥に停めてあるタンクローリーの塗装は、日石時代の最後のカラーリングのままだ。もちろんいまも現役できちんと整備されて使われている。古いものを残して大切に使うという意識がここにも感じられる。

大柄で快活な給油所長が「これも見ていってくださいよ。」と指さしたのは、配達用のローリーに灯油や軽油を充填する計量器台。トラックの荷台に載せたタンクよりも高い位置から作業するために、このような台状の構造を拵えることじたいはめずらしいものではないが、この給油所の場合は専用の独立した小屋を建て、その中に充填台を設置してある。これなら伊吹山地から琵琶湖に向かって吹き下ろしてくる寒風の中でも少しは作業が楽になるだろう。上の写真のスロープといいこの台といい、「人が人力で作業することをすこしでも安全に、そして簡便にする」ためにつくられている。建造物というよりは道具の感覚に近いのかもしれない。

この給油所を所有しているのは、この町の中心で100年以上前からある古い商家である。撮影後、写真の掲載を許可していただくためにその本店を訪ねた。本店では石油製品は扱わず、昔ながらの菜種油や胡麻油などを商い続けておられるが、店頭には蝙蝠印の時代の日本石油やスタンダード石油の特約店であったことを示す見事な木製の看板がいくつもディスプレイされており、店の長い歴史がわかる。

この町は400年以上の歴史を持つが、この給油所もすでに50年余この場所で営業を続けている。400年といえば遠く長い年月のようだが、この給油所の歴史も、すでにその8分の1を占めている。大したものではないか。