アイルランドの西南の海上にSchellig Michael(スケリッグ・マイケル)という巨大な岩のような島がある。ほとんど切り立った岩だけで出来ていて、円錐形の島の頂上には6世紀頃に作られた石積みの修道院の跡があるが、もう何百年も前からこの島は無人となっている。

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本土から遠望したスケリッグ・マイケル。大中小と三つの島が見える中で、左端の大きな島がスケリッグ・マイケル。やや重なっている中央の白っぽい島が小スケリッグ、右手前にある小岩礁は名前もついていない。

もう10年以上前にこの島に渡ったことがある。
島は16キロほどの沖合にあり、アイルランドの本土からも遠目に見える。たまたま近くの海岸を通りかかって眺めたその孤高の姿に惹きつけられて「あの島に渡る方法はあるのか」と地元の人に聞いてみると、渡船があるという。島に渡る船はPortmageeというさびれた漁村から出るが、村には簡易郵便局とよろず屋のような商店が二軒ほどある以外は、銀行もガソリンスタンドもない。
船に乗る前に「島には何もないから、せめて水ぐらいは買って持って行け」と言われて、よろず屋でミネラルウォーターを買った。わずかな食料品と最低限の日用品が棚に並べられた寂しげな店だった。
岸壁で出港を待っていると、どこからか人々が集まってきて、出港前には小さな船は7人ほどの乗船客で一杯になった。それでもどうやらちょっとした観光名所にはなっているらしい。

島までは1時間ほどかかる。無人島であるが、コンクリートで護岸された簡単な船着き場がある。船頭は乗船客を降ろすと「2時間後にまた迎えにくるから、それまでには必ず船着き場に戻ってくるように」と言い残して沖に去って行った。残された人々はただちに石積みの急な山道を登り、標高200m余の山頂付近にある修道院跡を目指すのだが、聞いていたとおり、島には小屋一つ見当たらないしトイレもない。(実際にはその時そこからは見えなかった島の南西側に、灯台の建物があることを後日知ったが、いずれにせよ無人であるのは確かなようだった)

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上陸地点から渡船と本土を振り返る。右に見えるのが小スケリッグ。小スケリッグは島全体が西ヨーロッパでも有数の海鳥のコロニーとなっており、そのフンで岩壁が白く染まっている。

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島の頂上付近には石積みの修道院の遺跡がある。遺跡の概要を説明するための小さなプレートが申し訳程度に石壁に針金でくくり付けてある以外は、目立つような看板も順路表示もなかった。

島は正確には大小二つのピークからなっていて、高いほうの頂上付近に修道院の跡があるが、平坦な部分が少ないこの島でも他にも場所がありそうなものを、意図的にこの急峻な斜面に修道院を建立したのは、すこしでも天に近づこうとしたからだろうか。そして大西洋の大海原しか見えない南西側ではなく、わざわざアイルランドの本土を遠く望むような場所を選んだのは、たとえばあえて俗世界が存在する本土を遠望させて隔絶感や孤立感をかりたて、対比的にこの島の神秘性を高めるような、なにか宗教的な理由があったのだろうか。

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作物を育てる土も十分にない岩だらけの島で、修道者たちはどんな過酷な修業をし、どんな思いで遠くにかすむ本土を見ていたのだろう。病気になれば祈ること以外に方法はなかったはずである。そんなことを考えながら遺跡の中にいると、あっという間に時間が経ってしまい、あわてて急な石段を降りて帰り道を急ぐことになった。船着き場に戻るとすぐに渡船が戻ってきて、船頭は客の頭数を数えて誰も居残っていないことを確認してから、もやいを解いた。

その日はPortmageeから2時間ほど車で走った海辺の街に投宿した。宿の女主人に今日はどこから来たのかと聞かれたので、Caherdanielから海沿いにやってくる途中で、Schellig Michaelを遠望して、そこにどうしても行ってみたくなり船で渡ったと答えると、「それはすばらしい。今日はお天気も最高でよかった。あの世界遺産の島に渡るチャンスはなかなかない」と言った。世界遺産だと?あれが世界遺産なのか、と聞くと「ええ、知らなかったの?」と不思議そうな顔をされた。

いつも旅行するときは紙の地図は持ち歩くが、そもそもガイドブックなど荷物が増えるだけだし興味もないので読んだこともない。地図にはWorld Heritage(世界遺産)という表示はどこにもなかったし、そういえば途中でけばけばしい土産物屋も立て看板もみかけなかった。その日、同じ船に乗り合わせた私以外の客達は、誰もがみな世界遺産だということを知って乗船していたのだろうが、船頭もひとこともそんなことを言わなかった。

おそらくPortmageeの村に世界遺産をあてこんだ土産物屋のひとつでもあれば、その時点で船に乗ることはなかったかもしれない。しかし夕餉の席で一日を振り返り、その日たまたま訪れた非日常的な光景が実は世界遺産であったことを知らされるのも、まあ悪いものではなかったような思いがした。いつもそういうことは後で知る。名声とか他人が下した評価とは無縁のところを選んで生きてきたのだから、それは仕方がない。

【追記】その後、この島にも訪れる人が徐々に増え、2009年には観光客が死亡する滑落事故が5月と9月の二度発生した。石積みの登山道は手すり柵もロープもなく、景観を犠牲にしても安全対策をすべきか、渡航制限を設けるべきかという議論がされたようだが、現在はどうなっているだろう。