しばらく前にロンドンに数日滞在する用事があって、半日ほど時間の余裕ができた。もとより観光名所はどこにも行くつもりがなかったが、ロンドンの市民が普通の生活をしている街並みを見物しに、ただ気のむくままに車を運転してぐるぐると走りまわってみようと思い立った。

もちろんロンドン市内といっても、地域によってその風景は大きく異なる。治安の悪い場所も多いし、運転していて楽しい街中の風景もあれば、あまりパッとしない場所もある。市の中心部は渋滞緩和のために、日中は登録された車両以外は侵入できない交通規制が敷かれているが、その内側は駐車にも苦労するし、わざわざ自分で車を運転して行くような場所でもない。
ロンドンは過去に二度しか来たことがなく、街の地理に詳しいわけではないが、とりあえずその規制区域の外側で適当にスタート地点を決めて走り出した。車にはもちろんカーナビなど付いていない。

スタートして1時間も経った頃、通りすぎざまにふと左に目をやった横道の奥に、思わず声をあげたくなるような建物がチラリと見えた。あわてて引き返してからその通りに入りなおして車を止め、その壁に取り付けられたネオンサインを見上げた。夜の闇に浮かび上がるだけでなく、日中の明るい陽射しの中でも十分に人目を引くことを計算したデザインだ。おそらく50年ぐらい前に、もとからあった古い赤レンガの建物の側壁に取り付けたものだろう。しかしいまここにプールやランドリーがあるようには見えない。

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後で調べてわかったことだが、これはHornsey Road Bath & Laundryという1895年に建てられた公衆浴場の建物だった。公衆浴場といっても日本の銭湯のようなものではなく、バスタブ付きのたくさんの個室と水泳用のプール、洗濯場を備えたもので、19世紀にロンドン市内に何ヶ所も建設された施設のひとつである。この建物は第二次世界大戦中の空爆で大きな被害を受けたが、60年代になって修復再建された後、1991年に閉鎖されるまで営業を続けた。その後、大規模なリノベーションが行われ、2009年にオフィス、アパート、保育所などがある複合施設として生まれ変わったのが現在の建物だが、かつてのプールやランドリーは今はない。それでもあえてこのネオンサインを残したのは、この地域のランドマークとして、人々に長い間親しまれてきたからだろう。

すらりと伸びた健康的な女性のシルエットにしばし見とれているうちに、パーキングチケットを10分しか購入していなかったことに気づき、あわてて車に戻った。ここから元来た通り(Seven Sisters Road)に戻るには、その先で右折を二度繰り返せばよい。このあたりは袋小路が多く、先まで通り抜けられるように見えても、途中で意図的にブロックしてある裏通りもあるから、遠回りのように見えてもある程度大きな道を選んだほうが失敗しない。そしてその計算通りに右折を二度繰り返したところで、こんな店舗にばったりと遭遇した。まったく朝からなんという日だ。

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これはクリーニング屋兼仕立屋だろうか。客が自分で洗濯をするわけではないが、ランドリーという範疇に一応入る店舗だ。ショウウィンドウに見えるように、婚礼衣装も仕立ててくれるのか、あるいは貸衣装の取り次ぎもやっているのかもしれない。
この四つ角にはそれぞれ商店があるが、その他は三階建てのやや古い住宅が建ち並ぶ地域。看板と装飾テントの色と、二階部分のレンガの色合いの調和もよく計算されているが、なんども改装をくりかえして現在の形になったに違いない。重厚な色の組み合わせが印象的であるが、華美ではない。しかしどことなく街並みから少し浮いているのは、住民の層が長い年月の間に変化したからだろうか。

さて、わずか小一時間の間に、見ごたえのある建物にたてつづけに二つ出会ったので上機嫌になり、次はどの方角へ向かうかと考えたところで、それならひとつ今日はランドリーを探してみようじゃないかと決めた。そしてとりあえず近くのバス通りまで出てから、ランドリーらしき店がありそうな街並みを探していたところ、ああ何ということだろう、5分も走らないうちに今度はこんなコインランドリーを見つけてしまった。

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ゆるやかな坂道の下にあるY字路の鋭角という絶妙の立地。王冠のようなその造形。ところどころ壊れてはいるが、青い地色によく映える木製の白い切り文字。そしてチェッカーのタイル。赤いレンガとのコントラストも申し分ない。朝からこんなに素晴らしい建物につぎつぎと遭遇できた幸運をかみしめる。

東京以上に交通渋滞のひどいロンドンで、わざわざ自分で車を運転して街を見てまわるとは、何を酔狂なと笑われそうだが、これはガイドブックをたよりに地下鉄や二階建てバスを乗り継いでいたのでは、決して味わうことのできない興奮であり、自分でハンドルを握った者の特権なのだ。そして事情さえ許せば、車ではなくスクーターで廻りたい愉しみでもある。しいて難をあげれば、途中でふらりと街角のパブに立ちよって、ビールで喉をうるおすことができないくらいか。そしてこういう日は空腹も忘れているので、とうとうランチを取らなかったことに、夕方になってやっと気がつく。

こんな日はそう度々はないのだ。だが一年に数回、大当たりを引く日がかならずある。その当りの日を夢見て、異国の街を、東京の市中を、日本の地方をいつも彷徨っている。