北ヨーロッパの寒い地域では、屋内に市場が作られる。煉瓦作りの立派な建物の一階がちょっとした体育館のような高い天井の空間になっていて、そこにチーズ屋だの燻製のサーモンやザリガニを売る店だのパン屋だのが整然と店をならべている。

この整然とというのがいかにも北ヨーロッパらしいところで、築地場外だのアメ横のような騒然とした雰囲気はなく、床もきれいに掃除されていて濡れていない。
さて、これはストックホルムにあるそんな屋内市場の肉屋で見かけた表示。

海外で生活した経験のある人ならご存知と思うが、欧米では日系のスーパーマーケットでもない限り、スキヤキやしゃぶしゃぶ用の肉を調達するのはなかなか難しい。それは霜降り肉が入手できないとかいう問題ではなく、単純に「薄く肉を切る」技術が欧米の肉屋にないからである。もちろんそれは技術以前に「薄切り肉を味わう」という発想の欠如でもあるのだが。

この表示の意味するところは、スキヤキ用に脂のほどよく乗ったよい牛肉がありますよということよりも、当店では薄くスライス致しますよということなのだろう。もちろんスウェーデン人の経営する店で、店員も金髪の兄ちゃんがいるだけだが、わざわざこういう表示を出すということは、それだけ在住日本人が買いに来る需要があるということなのか。
これがニューヨークやロサンゼルスならば、べつに驚きもしないが、なにせここはストックホルムだ。金沢の近江町市場の八百屋の軒先に「キャッサバ・タロイモあります」とスワヒリ語で書いた札がぶらさがっているようなものだ。
いちばん気になったのは、この表示はどうみても日本人が書いたものだということだ。達筆ではないが、この筆跡が日本人のものでないとすればよほどの人である。筆が縦書きの運びになっている。

ところで、海外では日本人旅行者の多い場所のレストランや土産物屋などに、あやしい日本語の表示をよく見かけるが、最近はパソコンで日本語がかんたんに表示・印刷できるようになったおかげで、きれいな漢字かなフォントで印刷されているものが増え、手書きならではの傑作を見つけるチャンスが減っている。やはり外国人が見様見まねで手書きした奇妙な文字に鑑賞する楽しみがあるのだが、残念なことだ。

これはベルギーで採集した一例。

ベルギー名物のムール貝のキャセロール蒸しを「煮物」というのはどうかと思うが、そのあたりにおそらくは日本語がちょっと読み書きできる外国人に書いてもらったものを信用して手本としたいきさつが伺い知れるようだ。
しかし上に書かれた店名に劣らぬヨーロッパのエスプリが漂うこの優雅なカリグラフィーはどうだ。ムール貝の文字はほんとうに貝に見えてくるし、煮という字は火にかけられた大鍋にレードルが立て掛けてあるように見える。象形文字としての漢字の成立の原点を知る好例だよこれは。

次もブリュッセルのあるビストロで見かけた表示だが、日本語のできるタイ人に書いてもらったのだろうかと思わせる味わい深い逸品だ。

「語」は言と吾がペアダンスしているような優雅な動きがあるし、2行目は数式(9x=2p-) のようでもある。3行目の「あります。」にいたっては、別の言葉が暗号として潜ませてあるようにも見える。もう怪しさ爆発で雰囲気満点だが、日本語のメニューがあるということで美味しい店ではないこと確定なので、残念ながらドアを開けるのはやめだ。

つぎはベルギーの大聖堂に貼ってあった注意書き。

印刷されたローマン文字の6言語にまじって、日本語だけ手書きになっている佳品。写真ではわかりづらいが、そこだけ別の紙に書いたものを貼り合わせてあるので、日本語を表示印刷できるパソコンがなかったので、誰かに頼んで書いてもらったのだろう。
三文字のトメ、ハネがいちおう合っているので、ちょっと下手ではあるが日本人が書いたもののようだ。まったく日本語を知らない欧米人が真似してなぞっても、なかなかこうはならない。

最後は別の教会でみかけた表示。

手書きなのに印刷された5言語と色を合わせてあるところが憎い。しかし日本語としてちょっとへんだし、筆の運びに大きな間違いはないが、この筆跡は日本人ではないと思われる。だがそれよりも謎の縦書きが興味をそそる。もう書くスペースがなくなったからここに無理やり書いたのか。それとも「日本語は縦書き」と誰かに教えられて、こう書いたのか。
横書きで縦に書くという仰天の発想に拍手を送りたい。