ここ数年、かなり頻繁に静岡方面に給油所巡りに出かけているが、由比と興津の間の国道一号線を走るたびに、なぜかいつも懐かしいような切ないような不思議な感覚がみぞおちのあたりにわき上がる。その区間は薩埵(さった)山が駿河湾に落ち込む水際のわずかな隙間を東海道本線と国道が並走しており、古くから日本の大動脈の最隘部とされたところだ。
毎回通るたびにその理由を模索してきたが、やがて西に向かう下りよりも、帰路の上りを走る時のほうがその感覚が強いことに気がついた。しかしこのあたりに暮したこともないし、給油所巡りを始めるまでは、この区間は新幹線か東名高速でいつも通過していたので、その景色には見覚えもなかったはずなのだ。

ところがこの年末、実家に暮の大掃除をしに帰った折り、子供の頃に読んでいた本を整理していて、突然その答がころがりでてきた。ボロボロになった幼児向け学習百科をめくっていると、最初の見開きにまさにその場所の写真があるのを見つけた。

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そう、このページを飽きもせず何度も繰り返し見ていた日々があった。その記憶が何十年も頭の片隅にしまわれていて、この場所を通るたびに無意識に呼び戻されていたのだ。上り側を走ったときのほうがその感覚が強い理由も、これで理解できる。
国道はその後海側に拡幅されて現在では片側2車線になっているが、東海道線と国道の間には、たしかにいまもこのような石垣が部分的に残っているのは知っている。

しかし、このあたりは富士山が正面に見えるはずだが、この写真にはその姿がない。この角度からだとちょうど薩埵山の山裾の蔭になってしまうのか。だとすれば遠くにかすんでいる山並みは愛鷹山だろうか。それにしては稜線のシルエットが違うような気がする。どうも遠景に自信がなく、この写真がほんとうに由比と興津の間で撮影されたものであるのか不安になってきたので、とりあえず現地に確かめに行ってみることにした。

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やはりこの場所で間違いない。おそらくつばめ号の写真を撮影したカメラマンは、富士山を画の中に入れることを期待して現地に行ったものの、当日は霞んで見えなかったのだろう。手前に見える稜線は、由比の東隣、蒲原の北方にある大丸山だと思われる。

記憶していた石垣は、この地点よりも由比方では現在もよく残っているが、このあたりは道路改修とともに撤去されたようだ。できるだけ古い写真と同じ位置から撮影しようとしたが、なにしろ交通量が多く、しかもたいへんな速度で流れているので路側を歩くことができない。もうすこし先まで踏み込んで上り車線に入れば同じような写真が撮れたはずなのだが、とうてい無理だった。

この本には奥付がなく、何年に出版されたものか不明だが、他のページの記述などから推測すると昭和36年頃初版のものらしい。
この写真の特急つばめの編成を見ると、先頭が国鉄色の赤帯の幅を広げたほど窓の大きい展望車両(パーラーカー)のクロ151を先頭に5号車までが一等車両、6号車は食堂車、7号車はビュフェを連結した12両の豪華長大編成となっているので、昭和35年6月に151系車両が12両編成でつばめに投入されて以降、「さんろくとう」で有名な36年10月の大改正で11両に短縮されるまでの間の写真ではないかと思われる。その後38年8月に再び12両編成が復活しているが、36年10月以降は一等車が一両減って、側面に特徴あるビュフェ車両のモハシ150が神戸方先頭から6両目になるので、この写真(モハシ150が7両目にあたる)はそれ以前に撮影されたものだろう。
全12両のうち先頭から5両目までがすべて一等車両、さらに食堂車・ビュフェ車両も2両連結という豪華さは、「こだま」と並ぶ当時の最優等列車の名にふさわしい。

東海道新幹線が開通するのは、これからさらに3年ほど後のことである。東名高速道路の富士ICと静岡IC間の開通は7年後になる。東海道線と国道一号が唯一の大動脈だった時代、日本列島を巨大な砂時計とすれば、最も細まった首の部分が由比と興津の間にあったと言える。東の人は西に、西の人は東に。その時代の日本中の人々の夢や希望が、特急列車や夜行列車に乗って、乗用車やバスやトラックに乗って、この幅わずか20メートルほどの隘路に束ねられ、ひしめくように流れていた日々があったのだ。

北陸の片田舎で、毎日雪解けの音を聞きながら絵本をめくっていた小さな子供は、一枚の写真を通して未だ見たことのない表日本の明るさにあこがれた。いつかこの場所に行きたいと夢見ていたが、それがどこにあるのかということも知らなかった。しかし数十年後にこの区間を通るたびに、記憶の深い深い底にあったその思いが「ここだよ、この場所なんだよ」と囁いてくれていたことを、いまになってようやく知った。