ソバ店ビル

K5sobaya

これは近所の立ち食いソバの店。ここがソバ屋だということは知っていたが、こんなに魅力的な建物だということは長い間気づかなかった。あるときたまたま通りの向かい側で足をとめたら気がついたのだ。
どんな身近かなところに、美しいものが隠れているかわからない。

赤羽根食堂

食料品店、美容室建築、自動車修理工場といった当ブログのテーマシリーズに押されているが、大衆食堂も重要なテーマの一つである。
akabane
赤羽根食堂。残念だがすでに廃業している。繁盛していた頃の姿を見てみたかった。
この街には古い土蔵や看板建築の商店が数多く残り、それを観光客にアピールした景観地区が設定されて街並みが保存されている。
しかし同じ道筋にありながらこの食堂はその区域からは外れていて、まったく観光客の姿はない。おそらく保存指定にもなっていないだろう。それでも意図して保存されたものには決して宿らない、この建物が持つ魅力に足を止めずにはいられなかった。

akabane2

ところでこの写真はiPhone4Sで撮影している。ブログにアップする程度の写真なら、デジカメでなくても、iPhone4Sでもう十分なんじゃないかと実感した。

青いインクのpapermateで

文字が印字してある紙切れに愛着を持つことおびただしく、そういうものを捨てられないたちで、旅行中に受け取ったレシートやらメモやらはすべて残してある。それこそドーナツ屋でコーヒー一杯を買ったレシートから、一泊34ドルという宿屋の領収書まで。そのときその町には宿屋はそこしかなく、一番高い部屋が34ドルだった。部屋はぜんぶで二つしかなく、安いほうの部屋は28ドルだった。

そういう紙切れをときどき整理しようと試みるのだが、手にとるたびに旅の記憶がよみがえってきて、結局一枚も捨てることができない。
とくに外国のセールススリップはその美しさにほれぼれと見とれることがある。

sh1

このShellの未使用のスリップをどこでもらったのか憶えていないのだが、その余白の美しさにしばらく手が止まってしまった。ふと見ると、裏側に何か書いてある。

sh2

152・152
どうみても日本人が書いた数字ではない。数字の5と2は日本ではこういう書き方をしない。
そして察するに、これは道順をしめした地図である。それも田舎でおそらくは乾燥した渺々たる平地。

表側をもう一度見ると1993年2月に印刷された用紙であることを示すような記号がある。その時期以降にどこかを旅行中にガソリンスタンドで道を訊ねたときに、店主が事務所のそのへんにあった紙片の裏に書いて説明してくれたもののようだ。オイルとホコリでぎちぎちと鳴るような武骨な手で書いてくれた地図。おそらくShellのカバーオールの左腕のペンポケットに差してあった、白軸のpapermate製の1ダース98セントの青いインクのボールペンで。

“Thank you!”というと、”You bet.”とウィンクして返してくれたかもしれない。
それだけのことなんだが、なんだか気持ちがこみあげてきて、胸がいっぱいになる。

数千年かけて地球を3分の2周まわった先のサウナ

6336この巨大なトラス橋は全長6545mあって、アメリカ西海岸オレゴン州とワシントン州の州境をなすコロンビア川の河口から20キロほど遡った場所に架橋されている。

この橋のオレゴン側にはアストリアという町がある。人口は1万人を下回っているが、オレゴン州北西部では名の知れた古い町で、昨年200周年を迎えた。この橋をシンボルとしてコロンビア川に臨む小高い丘の裾野に広がる市街地は、映画「グーニーズ」のロケ地となったことでも知られている。

コロンビア川は100km以上上流のポートランドまで大型船が航行できる大河で、そのためにこの橋をオレゴン側で60mの高さに持ち上げられているため、非常に高い橋脚が特徴的だ。

その真下に、橋脚がくっきりと濃い影を落とす二階建ての木造の建物がある。白とブルーで塗り分けられた木造壁の上部にはSUOMI HALL 1893-1947の文字。現在一階には作業服の店がテナントに入っているが、元々は集会所だったもののようだ。いやもしかすると今もそのまま使われているのかもしれない。

SuomiHall6347s

SUOMI(スオミ)とはフィンランドが自らの国のことを指すフィンランド語だ。なぜアメリカ北西部の小さな町にフィンランド語の名前の建物があるのか。じつはオレゴン州の北西端とコロンビア川をはさんで対岸のワシントン州の南西端の一帯は、アメリカでもフィンランド系移民の多い地域だ。

フィンランドからアメリカ新大陸に渡った最初の移民は1650年頃とされているが、1870年から1930年頃にかけて最も多くの移民がアメリカに到達している。現在フィンランド系アメリカ人の数は約70万人といわれ、全米の人口のわずかに0.2%にすぎない。都市部で他の人種と同化してしまったものを除くと、フィンランド系移民は特定の地域に密集していまも居住している傾向が強いのが特徴で、五大湖地域のカナダと国境を接する地域一帯、すなわちミシガン州北部、ウィスコンシン州北部、ミネソタ州北部はとくに顕著にフィンランド系住民のコミュニティがいまも認められる。その理由は明らかだ。森と無数の湖に恵まれたその地域は、故郷フィンランドの風景によく似ていたからだ。

しかしその地域とは遠く離れた太平洋岸の狭い地域に、まるで飛び地したようにフィンランド系住民の住む地域がある。このSUOMI HALLの建物に刻まれた古い年号は1893年となっているので、最初東海岸に移住した人々が、よりよい土地を求めて西へ西へと移動し、多くは五大湖地域の北部に定着したものの、ある集団はさらに西に向かった結果、とうとうこれ以上は先にすすめない太平洋岸まで届いてしまったのだろう。

フィンランド人は、もともと先史時代にウラル山脈に近い西シベリアの一地域から西に移動した人々が、現在のフィンランドの一帯に定着したのが起源と言われている。その人々の末裔が2000年以上経ってこんどはアメリカ新大陸に移住して、ミシシッピ川を渡り、さらにロッキー山脈を越えて太平洋岸まで到達し、このアストリアの一帯でそれ以上西に行くことを断念してしまったのだ。

sauna6343

SUOMI HALLと通りを挟んだ向かい側には、なんとアメリカには珍しい公衆サウナ風呂の建物が残っていた。すでに営業はしていないようだが、建物は何度も改修され、比較的最近まではここに人々が集まっていた様子がわかる。

sauna6343b

頭上の看板を見上げると、1928年創業の文字。

sauna6345

いまはこのようなわずかな痕跡をのぞけば、アメリカの静かな田舎町の風景となんらかわるところがない。しかしほんの20年ほど前までは、たしかにここにフィンランド系住民の集う場所があったようだ。
町のメインストリートをゆっくりとクルマで流して行くと、古い真っ赤なシボレーのタンク車が止めてある自動車整備工場を兼ねた古い給油所があった。

Niemi-Oil-Front

Niemi OIl。Niemiとはフィンランド語で半島の意味。ときどき見かける苗字でもある。給油所の写真を撮らせてもらおうと、整備工場の中に声をかけると、典型的なフィンランド顔をした長身の男性が、油まみれの手をペーパータオルでこすりながら出てきた。おそらく彼がニエミ氏なのだろう。ニエミ氏はブラウンダック生地のCarharttのカバーオールの上に、さらに同じ素材のCarharttの綿入れジャンパーを重ね着しているのだが、もはや1滴の油もこれ以上染み込まないほど、エンジンオイルやミッションオイルで真っ黒になって黒光りしている。その汚れ具合とヨレ具合がなんとも言えず美しいので、思わず「その作業服ゆずってくれないか」と言いそうになってしまった。
「給油所の写真だって?いいけど。」
「邪魔しないから。数枚撮ったらすぐに去るから。」
「ああ、俺は中に引っ込んでいるけど勝手にやんな。」

いかにも無愛想だが悪い人ではないらしい。間がもたないので、余計なことをちょっと聞いてみた。
「ところでNiemiというのはフィンランド語で半島という意味なんだが、あんた知ってたか?」
「知らんね。だいいち俺も誰もフィンランド語など喋れない。」

そういうとニエミ氏はまた手をぬぐいながら整備工場の中に戻って行った。
はるか西シベリアから出発して数千年。ようやくここまで来て、彼らの遺伝子はそれ以上西へ、それ以上先へ進むのをやめてしまった。さっきの油まみれの長身の男性が、やがて他民族の血の中に消えて行く最後の世代なのだろう。

食料品店建築 [3]

これは食料品店というよりは、菓子舗である。自家製の菓子とメーカー品の菓子の両方を商っている。

tomoeya

商店にありがちな貼り紙やポスターが一切ないので、一見すると商売をやめてしまった店のように見えるが、ちゃんと営業している。通りに面した引き戸はすべてぴかぴかに磨き上げられているし、店内には煎餅や焼菓子の入ったアルミの蓋のついたガラス瓶が、一分の隙も乱れもなく並んでいる。

ガラスに映った自分を見て、思わず姿勢を正してしまった。

食料品店建築 [2]

古き佳き時代の食料品店では店先にショーウィンドウが拵えてあるものがあったが、いまも残るそのような店舗の多くは、自動販売機を並べて塞いでしまっているところが多い。

酒も扱う店ではビール会社や酒造メーカーの担当営業が頻繁にやってきては、そんなショーウィンドウのディスプレイを手伝ってくれたりしたのどかな時代があった。ディスプレイといっても、夏はビール会社の新しい水着ポスターを貼ったり、冬は日本酒の菰樽を並べたりという程度のものだが、それでも季節ごとの色どりは目に楽しいものがあったし、3カ月もたつと色あせてくるのも、それはそれで風情があったものだ。いまは経営者も高齢化して、季節ごとにディスプレイを考える気力もなくなっているのだろう。

grocery-store2

この店舗は壁面の文字が和文も英文もそれぞれがオリジナルの書体で、新築時の店主の思いや、建築を担当した工務店の意気込みがいまも伝わってくるようだ。外れかかったグリーンスタンプ加盟店の看板が、この店が通り過ぎてきた時代を語っている。

食料品店建築 [1]

じつは食料品店にもずいぶん前から注目していたのである。
町角の食料品店の多くはスーパーや郊外店舗に押されて消滅しつつある。
個人商店は、コカコーラや食品会社が提供してくれる大きな看板に屋号を入れて間に合わせているところも多い。
grocery store 1

しかしこの写真の店舗のように、おそらくは店主が自分で一生懸命ペンキ塗りをしたような看板を見つけることもある。
日除けのテント。手作りの商品台。

午後の残光の中、店の前を物憂げにネコが通り過ぎる。

囁きかける風景

ここ数年、かなり頻繁に静岡方面に給油所巡りに出かけているが、由比と興津の間の国道一号線を走るたびに、なぜかいつも懐かしいような切ないような不思議な感覚がみぞおちのあたりにわき上がる。その区間は薩埵(さった)山が駿河湾に落ち込む水際のわずかな隙間を東海道本線と国道が並走しており、古くから日本の大動脈の最隘部とされたところだ。
毎回通るたびにその理由を模索してきたが、やがて西に向かう下りよりも、帰路の上りを走る時のほうがその感覚が強いことに気がついた。しかしこのあたりに暮したこともないし、給油所巡りを始めるまでは、この区間は新幹線か東名高速でいつも通過していたので、その景色には見覚えもなかったはずなのだ。

ところがこの年末、実家に暮の大掃除をしに帰った折り、子供の頃に読んでいた本を整理していて、突然その答がころがりでてきた。ボロボロになった幼児向け学習百科をめくっていると、最初の見開きにまさにその場所の写真があるのを見つけた。

kh1

そう、このページを飽きもせず何度も繰り返し見ていた日々があった。その記憶が何十年も頭の片隅にしまわれていて、この場所を通るたびに無意識に呼び戻されていたのだ。上り側を走ったときのほうがその感覚が強い理由も、これで理解できる。
国道はその後海側に拡幅されて現在では片側2車線になっているが、東海道線と国道の間には、たしかにいまもこのような石垣が部分的に残っているのは知っている。

しかし、このあたりは富士山が正面に見えるはずだが、この写真にはその姿がない。この角度からだとちょうど薩埵山の山裾の蔭になってしまうのか。だとすれば遠くにかすんでいる山並みは愛鷹山だろうか。それにしては稜線のシルエットが違うような気がする。どうも遠景に自信がなく、この写真がほんとうに由比と興津の間で撮影されたものであるのか不安になってきたので、とりあえず現地に確かめに行ってみることにした。

yui2012

やはりこの場所で間違いない。おそらくつばめ号の写真を撮影したカメラマンは、富士山を画の中に入れることを期待して現地に行ったものの、当日は霞んで見えなかったのだろう。手前に見える稜線は、由比の東隣、蒲原の北方にある大丸山だと思われる。

記憶していた石垣は、この地点よりも由比方では現在もよく残っているが、このあたりは道路改修とともに撤去されたようだ。できるだけ古い写真と同じ位置から撮影しようとしたが、なにしろ交通量が多く、しかもたいへんな速度で流れているので路側を歩くことができない。もうすこし先まで踏み込んで上り車線に入れば同じような写真が撮れたはずなのだが、とうてい無理だった。

この本には奥付がなく、何年に出版されたものか不明だが、他のページの記述などから推測すると昭和36年頃初版のものらしい。
この写真の特急つばめの編成を見ると、先頭が国鉄色の赤帯の幅を広げたほど窓の大きい展望車両(パーラーカー)のクロ151を先頭に5号車までが一等車両、6号車は食堂車、7号車はビュフェを連結した12両の豪華長大編成となっているので、昭和35年6月に151系車両が12両編成でつばめに投入されて以降、「さんろくとう」で有名な36年10月の大改正で11両に短縮されるまでの間の写真ではないかと思われる。その後38年8月に再び12両編成が復活しているが、36年10月以降は一等車が一両減って、側面に特徴あるビュフェ車両のモハシ150が神戸方先頭から6両目になるので、この写真(モハシ150が7両目にあたる)はそれ以前に撮影されたものだろう。
全12両のうち先頭から5両目までがすべて一等車両、さらに食堂車・ビュフェ車両も2両連結という豪華さは、「こだま」と並ぶ当時の最優等列車の名にふさわしい。

東海道新幹線が開通するのは、これからさらに3年ほど後のことである。東名高速道路の富士ICと静岡IC間の開通は7年後になる。東海道線と国道一号が唯一の大動脈だった時代、日本列島を巨大な砂時計とすれば、最も細まった首の部分が由比と興津の間にあったと言える。東の人は西に、西の人は東に。その時代の日本中の人々の夢や希望が、特急列車や夜行列車に乗って、乗用車やバスやトラックに乗って、この幅わずか20メートルほどの隘路に束ねられ、ひしめくように流れていた日々があったのだ。

北陸の片田舎で、毎日雪解けの音を聞きながら絵本をめくっていた小さな子供は、一枚の写真を通して未だ見たことのない表日本の明るさにあこがれた。いつかこの場所に行きたいと夢見ていたが、それがどこにあるのかということも知らなかった。しかし数十年後にこの区間を通るたびに、記憶の深い深い底にあったその思いが「ここだよ、この場所なんだよ」と囁いてくれていたことを、いまになってようやく知った。

美容室建築 [16]

建物ではなく、目が止まったのは植栽ですけど。
お店の人が自分で手入れしている手作り感がある。
だけど髪をカットする技術とはまた別の感覚が要求されるのだろう。
装飾テントや木枠の窓のペイントもいい感じだ。

栗林美容室

たかさご食堂

t20074年前の12月にこの写真を撮った。東京の冬らしい澄みきった空にまだ低い角度から差す朝日がまぶしく、背にした電柱や電線がくっきりと黒い影を落としていた。

いつかこの店の営業中に、それも影の出にくい曇天の日にもう一度撮影してみたいと考えていて、あっというまに月日が過ぎてしまった。

先の祝日、うっすらと曇った朝に思い立って、この店の場所まで足を運んでみた。正直なところ、あまりよく通る場所ではないので、この店がいまどうなっているのか知らなかった。

かなり建物が古かったような記憶があるので、もしかすると建て替えてすっかり新しくなっているかもしれない。そうでなくても書き文字が剥げかかったペンキ看板が塗り直されたか、あるいはぴかぴかしたアクリル電飾に作り替えられている可能性は十分にある。見たいような見たくないような、なんとも複雑な気持ちが足どりを鈍らせた。

t2011
しかしそんな懸念も無用。近くまで来ておそるおそる探してみると、まったく4年前と変わらない姿で店が存在した。しかも「たかさご」の名にふさわしくまるで慶事を祝うかのように、鮮やかな赤いノレンが揺れている。ノレンの下には前は窓の内側にしまい込まれていた品書きの板が吊るされ、店内からはテレビのにぎやかな音声が洩れていた。

この店の顔ともいえる見事な手書きの看板は健在だったが、やはり赤い塗料の部分は褪色が大きい。あと数年すればほぼ読めなくなってしまうのではないか。

願わくば、ワンタンの上に餃子を上書きしたように、消えても消えてもその上から塗り重ねてほしいものだ。この看板を書いた職人が、また同じように仕事をしてくれることを祈った。

自動車修理工場 [5.5]

旅の文章で「いつかまた訪れてみたい」と結ぶ例はよくあるが、本当に再訪を実現させるという一点においてはかなり自負するところがある。それはリピーターのひとつに過ぎないが、ハワイは毎年行っていますとか、ソウルは毎月のように遊びに行きますというような話ではない。

おおよそ普通の人なら、物好きに再訪するほどの用事も名物もないような無名の小さな町をわざわざ訪ねるという馬鹿げた行為にこそ、自分の旅の意味があると勝手に信じている。

ひとつ前のエントリーでアイルランドの古城を間借りした自動車修理工場を紹介した。そこを訪問したのは2月のことで、冬にしては暖かな雨がそぼ降る夕方のことだったが、その写真を店主に手渡しで届けたいという思いが湧いてきて、どうにもおさまらなくなってきた。雨の降っていない日にもう一度見たいという気持ちもあった。(これは前回の写真↓)

CastleGarag5831s

結局、やはり行ってきた。そこは首都ダブリンから200キロ以上離れた所で、お城の正門前にテニスコート2つ分ほどの広場があって、それを囲むように古い街並みが形成されている他はとくに見るものもなく、そのさらに先にある景勝地に向かう観光客がアイスクリームでも買うために車を停める程度のよくある田舎町にすぎない。

しかしこんどは8月の午後である。望んだ通りに空は澄み、街路は鮮やかな花で飾られている。1年半ぶりに訪れた工場は遠目にはまったく変わりないように見えたのだが、近づいてよく見てみると結構変化があるのに気がついた。

mr3152

CG3159s

まず門の脇に3つ並んでいる古い計量器がレストアされている。いずれもすでに給油には使われておらず、飾りでしかないのだが、向かって右側にある一番古いものはツートーンに塗り分けられた往時の塗装に戻すために、ボディの緑色のペイントをきれいに剥がしてしまたようだ。

残念なのは門のアーチ中央にあるBPの紋章の白文字が緑で塗りつぶされたことだ。何か理由があったのか、それともペンキ屋がうっかりやってしまったのか定かではないが、せっかくの雰囲気が画竜点睛を欠いたように違うものになってしまっている。

城門をくぐって中のオフィスに声をかけてみると、前回会った男性とは違う若い人が出てきた。どうやらまた経営者が変わってしまったらしく、こんどは城門にも計量器にも大きく屋号の看板が取り付けられている。実は自動車修理工場ではなく、車のオーディオや内装をカスタムチューンするショップのようだ。

前回撮影した写真を手渡すととても喜んでくれたが、そこで厚意に甘えて長居をしてはいけない。余計なことをなさずに用件だけをさっさと済ませて立ち去るのが自分の旅の流儀なのだ。渡り鳥がつかのまの休息地に同じ場所、同じ木を選ぶように、あくまでも写真を持参しに立ち寄ったという用件だけにこだわるのがよい。うっかり長居してしまうと、次にまた来るという動機を失うことになるかもしれず、なんとなく後ろ髪を引かれるような気分を残して置くのがよいと思うのだ。

とりあえずは5.5である。5.6があるかもしれないし、ここで終わってしまってもそれはそれで仕方がない。

自動車修理工場 [5]

CastleGarag5831

その名の通り、アイルランドの古い城郭の一角にある自動車修理工場。お城の脇の長屋のような部分が商店や飲食店にテナントとして供されていて、その一番奥の小さな門を利用して修理工場がビジネスをしている。もともとはここから馬が騎士を乗せて続々と出入りしていた門のようで、いわば厩門である。

CastleGarage5847s

かつてはその門の内側に厩舎があったのだろう。古くは馬が、いまは自動車が出入りしているのだから、それはそれで理にかなっている。
門の脇に並んでいる古い計量器はいまは壊れて使われていない。 中に入って経営者にいつごろからここでビジネスをしているのか聞いてみたところ、ほんの数年前からだというので拍子抜けしたが、どうやらその前も別のオーナーが長年同じ工場を経営していたらしく、彼がそのビジネスの権利を引き継いで始めたのが数年前ということらしい。

城門のアーチの上に掲げられたCASTLE GARAGEの文字は、直線の板を組み合わせてペンキを塗っただけのものだが、なんともいえない素朴な雰囲気を出している。みればみるほど味わいのある建物だったが、あいにくの雨でいい写真が撮れなかったのが残念だ。ぜひもう一度、気候のよい時期に再訪してみたいと思った。

自動車修理工場 [4]

数年前にこの写真をある女性に見せたら、ひとこと「ずるいです。」と言われた。

molloy

たしかにずるいと思う。ファサードの造形、窓の鉄サッシ、板扉の色、そして屋号を書いた手書きの書体。これを見せられたら他に敵うものがないほどすべてが心憎い。豪華なものは何一つないのに、どこに出してもまけない朴訥な強さがある。

アイルランド西部の荒地の真ん中、人家もまばらなところにこの修理工場がある。一日に何度も通り雨が降り、そのたびに小さな虹がかかる。

黒壁に塗り残し

はじめて訪れる土地で町並みを探索するとき、海か山かの選択肢があれば、海ぞいの集落を訪ねることが多い。
経験上、海に近い場所のほうが路上で気になるもの、変わったもの、面白いものを数多く発見することができる。それは山がちな日本の国土においては海沿いの集落は人の密度が高く、それだけ人々の生活の痕跡が濃厚だからということもあるが、海と暮らす人々のほうが、細かいことには無頓着でおおらかな気質を持つ人が多いからかもしれない。

bk1

これはたまたま通りかかった海ぞいの古い集落で見つけた倉庫の壁。どうしてこうなってしまったのか。
おそらくトタン板の固定をしているネジの頭を先に黒い塗料で目止めして、次に塗装のセオリー通りに端から塗り始めていったところ、ここまで塗ったところで中断してしまったのではないか。

理由はどうあれ、塗り残された長方形白色の部分はあとからあとから塗料が垂れてきてこの通りだ。いっぽう、上端をまだ塗っていなかったT字の部分は、ネジ頭の目止めから垂れている以外に上から垂れた様子がない。

bk2

近寄ってみると、ここまで塗ったところで塗り手が偶然の造形の面白さに気付いて、それ以上塗り進めることをやめてしまったかのようにも見える。こういうところが海辺ならではのおおらかさだと思うわけだ。

顔に蛇口

日本の印刷技術が世界一の水準であることは、誰もが認めるところだろう。
「水と空気以外なら何にでも印刷できる」というのは、日本の印刷会社がよく用いる代表的なキャッチ・フレーズになっており、曲面だろうが、米粒だろうが、どんな素材にでも印刷する技術が培われている。

mizu

さて、この写真は某県方面に給油所探しに出かけるときには必ず使う抜け道の途中にある水道工務店の看板なのだが、これを目にするたびに、「水に印刷ができないのに、なぜ蛇口が取り付けられるのか!」といつも考えてしまう。むしろ逆に蛇口からしたたる水滴に目鼻がついているほうが自然ではないのか。これではせっかく取り付けた蛇口がポロリと落ちそうで、工務店の信頼には逆効果ではないか、とあれこれ考えてしまい、なにか不安な釈然としない気持ちにいつもなるのだ。

ところが先日、福島県の出光の給油所で、防火壁に描かれたアポロの横顔の真ん中から、にょっきり蛇口が飛び出しているのを見つけた。

2388a

2392a

これを見た瞬間に、あの水道工務店の看板を思いだしたのは言うまでもない。こういう例はいままで気がつかなかったと感心して写真を撮ったのだが、面白いもので間を置かずその翌々週に、こんどは山梨県の出光給油所で、また同じような例に遭遇する。

2708a

2709a

これがなぜ興味深いのかというと、出光のシンボルであるアポロの横顔が防火壁に描かれるようになったのは、2006年に現在の塗装パターンに変更されてからなのだ。つまり防火壁に蛇口を設置した時点では、まさか後でここに顔が描かれるとは誰も予想していなかったのである。塗装を担当した業者も面食らったことだろう。そして同様の例は日本全国に他にもたくさんあるはずなのだ。
これでまたひとつ出光の給油所を訪ねる楽しみができた。