
このなんだか奇妙な顔のような物体はバスである。それも屋根がついている。

いったい何のために屋根が必要だったのか。

出入り口のある左側も塞がれていて、中に入ることができない。だが、こういう奇妙なものがキレイに残っている場所というのは、他にも面白いものがえてして多い。万物に神宿ることを実感せざるを得ない。
Published on 2012/05/17

このなんだか奇妙な顔のような物体はバスである。それも屋根がついている。

いったい何のために屋根が必要だったのか。

出入り口のある左側も塞がれていて、中に入ることができない。だが、こういう奇妙なものがキレイに残っている場所というのは、他にも面白いものがえてして多い。万物に神宿ることを実感せざるを得ない。
Published on 2012/05/13
すでに店舗としての役目を終えて、シャッターを閉ざしてしまった建物に、しばしば美しい絵画や文字を見つける。給油所巡りの途中にわざと路地やさびれた商店街の中に迷い込んで、そんな建物を探すのが習慣になってしまった。


いずれも和歌山の古い街並みの中で偶然出合った建物。この文字を作った職人達はまだ生きているだろうか。
Published on 2012/05/08
日本全国に団地を愛する人々が相当数いることはわかっている。団地マニアの数は鉄道マニアにはとうてい及ばないけれども、ガソリンスタンド・マニアより多いことは確かだ。というよりガソリンスタンド・マニアを標榜している人を自分以外に知らないんだけど。
この団地マニアの皆さんとはいろいろなところで親しくさせてもらっているが、実際のところ団地とガソリンスタンドにはあまり接点はない。団地の敷地の片隅にガソリンスタンドがある例なら、探せばいくらでもあるだろう。だがこの二つは趣味の地平というか方向性が交わることは、これまでなかったのだ。
過日、和歌山の海岸線沿いに給油所を訪ねてまわった。国道42号線からわざと外れると、旧い街並みの中やひなびた駅の近くに、魅力的な給油所がいくつも点在していて、なかなか先に進めない楽しい旅だった。旧道を辿り、断崖から見下ろす明るい海を楽しんで峠を越え、一面のミカン山の斜面を下りはじめたとき、眼下の風景の中にたいへんなものを見つけて思わずブレーキをかけた。

これは…。団地とおぼしき古い建物の側壁に、旧丸善石油の燕のマークが大きく、あざやかに描かれているではないか。

坂道を駆け降りて小さな橋を渡り、その建物の傍まで飛んで行った。建物はかなり老朽化しているが、まだしっかり現役のようだ。ここからほど近いところに、旧丸善石油の製油所が昔から存在している。その従業員用の社宅として建設され、使われてきたものだろう。

よく見ると、マークは壁面にただ赤く塗装してあるのではなく、レリーフとなっているようだ。丸善石油が大協石油と合併してコスモ石油となって以来すでに四半世紀が経過したにもかかわらず、褪色の早い赤系の塗料がよい状態で残っているのは、燕のマークに誇りをもつ人々が塗り替えてきたのだろうか。
土手の上からしばらくこの壁を眺めて過ごした。これ以上ここにいると、今日の目的地まで辿り着けそうにない。時計にせかされるようにようやくその場所を後にした。
Published on 2012/05/01
最近流行りのカタカナのものは別として、美容室、美容院以外の漢字表記の例はあまりないが、美容園という書き方ははじめて目にした。しかも建物の状態も悪くない。

できれば真正面から撮影したかったのだが、なにぶん狭い路地で正面からいっぱいに引くことができず、やむなく斜めから撮影した次第。

スター美容園という名前もいいじゃないか。スタアという書き方もあるが、いやここはスターでいい。そんなことを考えながら、静かな日曜日の午後、谷間に隠れている小さな町を後にしたのである。
Published on 2012/04/16

町工場の職人達の世界を、自ら職人である視線で描き出す小関智弘氏の著作の一つに「春は鉄までが匂った」(ちくま文庫)という作品がある。その題名を見た時に、ほんとうにそうだ。たしかに鉄は匂う。と思った。
子供の頃に暮らしていた町のはずれには金属加工をする町工場がいくつかあった。そこに行くとトタン葺きの屋根の下に旋盤の切削屑が一斗缶やドラム缶に入れてならべてあって、きらきらと輝く螺旋の金属屑がいつも不思議な匂いを発していた。
遠い記憶の中に、匂いとともにいまも忘れることなく刻み込まれているのは、製材所の丸鋸の音だ。土曜日の昼下がり、路地裏で遊んでいると、ぶーんという羽音のような響きが遠くの製材所から聞こえてきた。ときには上空を旋回するセスナ機のエンジン音がそれに重なり、さらにはその飛行機に取り付けられたスピーカーから流れる宣伝のナレーションが風にとぎれながら届いた。
土曜日はまだ半日しか休日ではなかった時代の話だ。
Published on 2012/04/06
大都会の大きな私鉄駅のすぐ近く、交通量の多い街道に寄りそうように並走する旧道で、この理髪店を見つけた。おそらく50年以上経っている建物だが、立派に営業を続けているようだ。


まだ新しいブラインドの下の隙間から、飼い猫が顔を出して、こちらをずっと睨んでいた。
Published on 2012/04/04

総タイルでトリコロールを表現している廃業物件。
それにしても、この写真、どこが水平でどこが垂直なのかわからない。
左のビルと右奥のビルを基準にしたが、消火栓を表す赤いポスト支柱と焦げ茶の道路標識の支柱も傾いている。歩道の縁石とガードレールは右端は水平だが、左に向かうにつれて下がり気味。なんだかだまし絵のようだ。
Published on 2012/04/01
牛乳ブランドには牛乳書体ともいうべき独特の書体があった。
たとえば「乳」の字ひとつにも、森永牛乳と明治牛乳では書き方が違う。これは以前にも紹介した明治牛乳の販売店の例。明治牛乳の乳は「一ツ子」で表されている。

過日、よく晴れた日にたまたま森永牛乳の販売店の前を通りかかった。森永牛乳の乳の書き方は「ノ小子」だ。

写真を撮らせてもらうためにお店のご主人に声をかけると、「ああ、うちのエンゼルマークはよく写真に撮って行く人が多いんですよ。もう珍しいからね」と言われたが、申し訳ないが僕が強く惹かれたのはエンゼルマークではない。軒下に積み上げられた青い牛乳箱に隠れそうになっている販売店名の立体文字だ。

木製の立派な切り文字だが、注目したいのは屋号の漢字まで統一された書体になっていることだ。一枚目の明治乳業の販売店の写真にもあるが、地名に用いられる漢字も明治牛乳の書体と統一がとれたものになっている。これは牛乳ブランドに限ったことではなく、同じ時期(昭和30-40年代)の給油所にも多くの例を認めることができる。


フォントもカッティングシートもない時代、仕様書に清刷された制定書体を見様見まねで現場の塗装職人が考えたのだろう。あるいは最初は統一感があったものが、長年塗装をやりなおすたびに、上からなぞってはだんだんと形が曖昧になってきたものも多い。しかしこの時代の職人が、その意味も知らずに懸命にコーポレート・アイデンティティーに従おうとしていた姿を思いうかべると、いつも胸が熱くなる。
Published on 2012/03/27
大衆食堂シリーズも12店舗目となった。

大佐渡食堂。すでにタバコ店になっているが、目の前の国道1号線の盛衰を長年じっと見つめてきた建物である。
その勢いのある文字は、昔の映画ポスターを思わせる。耳を澄ますと、なんだか日本海の荒波が砕ける音が聞こえてきそうだ。
Published on 2012/03/26
昔、ニューヨークにいた頃の仕事場は、築150年の建物の最上階にある6畳ほどの小部屋だったが、雨漏りがひどくて悩まされた。2日も雨が続けば天井にシミが広がりはじめ、そのうちぽたぽたと垂れてくるので、雨の多い時期には毎日ビニールシートを机の上にひろげてバケツを並べてから帰った。
あんまりひどいので、担当者になんとかしてくれと頼んだら、3日ほどしてオルテガと名乗る男が一人やってきて、長い物差しで天井をつついたかと思うと
「あーこれはひどい。」
とひとこと言って帰っていった。オルテガの役目は現状確認なんだそうだ。
オルテガから修繕係のフェルナンデスに連絡が行くのにまた2日ほどかかって、ようやくやってきたフェルナンデスは天井を見上げて
「あーこれは人足が2人は必要だ。」
と言い残して帰っていった。フェルナンデスの仕事は現状によって人足が何人必要かを見積もることだそうだ。
フェルナンデスは人足を手配することにさらに3日ほど費やし、ようやくゴンザレスとテノリオと名乗る人足が来たが、必要な材料が足りないと言って、その日は2人とも午前中で帰ってしまった。翌日テノリオだけが来て、
「ゴンザレスは子供が産まれるので今日は休む。1人だと作業できないので、フェルナンデスの親方に別のを1人よこすようにこれから交渉してくる。」
と言って出ていったまま、その日は帰ってこなかった。
次の日、またテノリオ1人だけが来て
「ゴンザレスは昨日のうちに子供が産まれなかったので、今日も休む。親方に別のを1人よこすように昨日交渉したのだが、だめだったので、今日は1人でやらなくてはならない。」
と言って不満そうに作業を始めたのだが、天井を一部剥がしたところまでやって、
「これは屋根の修理を先にしなければならない。いくら天井を張り替えてもまた漏れてくる。」
と、当たり前のことを言い出した。なんだおまえら屋根屋じゃなかったのかと思ったら、案の定
「親方に交渉してくる。」
と言って帰ってしまった。
どうせまた3日ほどかかって、ロペスとかサンチェスとかロドリゲスとかいう名前の輩が来てはあれこれ言い訳するのはわかっているので、もう当てにしないことにした。ここはニューヨークである。オルテガもフェルナンデスもテノリオもゴンザレスも、どこかカリブ海の島国からやってきた移民だ。
これがオハラハンとかオブライエンとかフィッツシモンズなどと名乗る男達になると、登場人物の数も工期も半分に短縮される。ただし誰か一人はいつも二日酔いで仕事に出てくる。フィッシャーとかミュラーが出てくると2人で2日で修理が終わる。仕事はわりときっちりしているが、融通がきかない。
もしも宍倉友吉って屋根職人がくれば、彼ひとりで1日ですべてが終わる。宍倉友吉(62歳)は朝6時半には現場に来て、9時半に10分の休憩。12時半に奥さん(はつ子 60歳)が作ってくれた弁当をとり出し、10分で食べて20分昼寝するが1時には仕事に取り掛かって、4時に終わり、そのあと現場を30分かけてきっちり掃除して帰って行く。
屋根には足跡ひとつ残っていない。
友吉っぁんはエライよ。友吉っぁんはスゴイよ。
いつか彼に会える日のことを、毎日穴のあいた天井を見上げながら考えていた。
Published on 2012/03/11

小学校2年生ぐらいの頃の話。
ある日、母親に連れられバスに乗って親戚の家にでかけた。家からいちばん近い停留所はオモチャ屋の前にあって、バスがくるまで店の中に陳列してある商品を眺めるのが、いつも楽しみだった。
その日、店内でゼンマイ仕掛けのオモチャを見つけて欲しくなった。めったなことではオモチャを買ってくれない親だったが、その日はめずらしくOKが出た。ただし条件があって、親戚の家から帰ってきて、このバス停で降りるまではがまんしなさいという。
ダメを承知でもねだってみるものだと、その条件を呑んで親戚に出かけた。いつもは長居するのに、その日ばかりは早く帰りたくてしょうがない。何度も何度も母親に早く帰ろうとせかして、ようやく帰途についた。いつもは小一時間で着く道のりが、気が遠くなりそうに長く感じた。
元の停留所でバスを降りると、約束通りオモチャの代金として数枚の硬貨を手渡され、「夕飯の買い物をして帰るから」と言う母親と店の前で別れた。すぐさま店に飛び込んで狭い通路をかき分けるようにして棚に向かった。
しかし、ひとつしかなかったそのオモチャはすでに売り切れていた。
がっかりしてその店を後にしたあの日暮れ時のことをいまでも忘れない。
春が来ている。
県道の脇にひっそりと残っている、こんなオモチャ屋を探す旅をしようと思う。
Published on 2012/03/05
これは25年前にニューヨーク州の北部で撮影した写真だ。BEEF HOUSE。なんというストレートな屋号だろう。日本ならさしずめ牛丼屋というところか。

当時こんなロードサイド・フードの店舗建築に興味を持って写真を撮っていた。日本でもルート66とそのロードサイドの風物は有名だが、僕が好きだったのはもっと無名の地方幹線道沿いの風景。映画に出てくるようなダイナーもまだあちこちに残っていたが、ダイナーよりもむしろ、こういうひなびた飯屋のようなものに強く惹かれた。18輪のトレーラーが夜通しエンジンをかけたまま駐車している広大な敷地の片隅で、グリーシーな匂いをまきちらしているような飯屋だ。
屋根の上の大きな看板は、合板の骨組みに貼り付けたトタン板に直接ペイントしてあり、最初は職人が文字を書いたものの、長い年月の間、塗り重ねてなぞるたびに、だんだんと下手になっていったのがかえって味わいを出している。TRUCK STOPと書いてある通り、お客の多くは腹を空かせたトラック運転手で、Roast Beef on Weckというのは、この地方の名物料理。キャラウェイの入ったドイツ風のロールパンに薄切りのローストビーフを挟んだものだ。

この写真を撮ったとき、この店はすでに廃業していたように記憶している。建物は荒れていないし、窓もそれほど汚れていないのだが、人の気配がなかった。おそるおそる窓ガラスに顔を押し付けて中を覗いて見ると、内部は整然と整頓されていて、砂糖入れには砂糖が半分残っていたし、紙ナプキンもしっかり充填されているのだが、明日からはまたお客さんがたくさんやってくるというような気配がなかったのだ。
屋根の上のコックの絵も、店内の壁にあった絵も、どことなく東洋人の顔をしているのが妙に印象的だった。東洋人の少ないこの地域で、中華料理屋でもないのに、なぜこんな顔をしていたのだろうか。
3月のよく晴れた午後だった。五大湖を渡って吹いてくる冷たい風が店の裏手にある大きな柳の枝を揺らしていて、灰色のしけた顔をした犬がよろよろと駐車場を横切って行った。車内のラジオはWYRK106.5にチューニングしてあった。そういうことを25年たった今もなぜかよく憶えている。
いまこの場所をもう一度訪れても、その痕跡も残っていないだろう。
附記:この写真はKodachrome 64で撮っていた。その頃はいつかフィルムが無くなる日が来るなど想像もしなかった。レンズはMicro Nikkor 55mm一本。これひとつで旅に出て、あらゆるものを撮っていた。愚か者はアメリカの広大な風景をマクロレンズで撮影していたのだ。いま考えるとなんだかとても滑稽だが、それはそれでよかったのかもしれない。
Published on 2012/02/23

これは近所の立ち食いソバの店。ここがソバ屋だということは知っていたが、こんなに魅力的な建物だということは長い間気づかなかった。あるときたまたま通りの向かい側で足をとめたら気がついたのだ。
どんな身近かなところに、美しいものが隠れているかわからない。
Published on 2012/02/20
食料品店、美容室建築、自動車修理工場といった当ブログのテーマシリーズに押されているが、大衆食堂も重要なテーマの一つである。

赤羽根食堂。残念だがすでに廃業している。繁盛していた頃の姿を見てみたかった。
この街には古い土蔵や看板建築の商店が数多く残り、それを観光客にアピールした景観地区が設定されて街並みが保存されている。
しかし同じ道筋にありながらこの食堂はその区域からは外れていて、まったく観光客の姿はない。おそらく保存指定にもなっていないだろう。それでも意図して保存されたものには決して宿らない、この建物が持つ魅力に足を止めずにはいられなかった。

ところでこの写真はiPhone4Sで撮影している。ブログにアップする程度の写真なら、デジカメでなくても、iPhone4Sでもう十分なんじゃないかと実感した。
Published on 2012/02/18
文字が印字してある紙切れに愛着を持つことおびただしく、そういうものを捨てられないたちで、旅行中に受け取ったレシートやらメモやらはすべて残してある。それこそドーナツ屋でコーヒー一杯を買ったレシートから、一泊34ドルという宿屋の領収書まで。そのときその町には宿屋はそこしかなく、一番高い部屋が34ドルだった。部屋はぜんぶで二つしかなく、安いほうの部屋は28ドルだった。
そういう紙切れをときどき整理しようと試みるのだが、手にとるたびに旅の記憶がよみがえってきて、結局一枚も捨てることができない。
とくに外国のセールススリップはその美しさにほれぼれと見とれることがある。

このShellの未使用のスリップをどこでもらったのか憶えていないのだが、その余白の美しさにしばらく手が止まってしまった。ふと見ると、裏側に何か書いてある。

152・152
どうみても日本人が書いた数字ではない。数字の5と2は日本ではこういう書き方をしない。
そして察するに、これは道順をしめした地図である。それも田舎でおそらくは乾燥した渺々たる平地。
表側をもう一度見ると1993年2月に印刷された用紙であることを示すような記号がある。その時期以降にどこかを旅行中にガソリンスタンドで道を訊ねたときに、店主が事務所のそのへんにあった紙片の裏に書いて説明してくれたもののようだ。オイルとホコリでぎちぎちと鳴るような武骨な手で書いてくれた地図。おそらくShellのカバーオールの左腕のペンポケットに差してあった、白軸のpapermate製の1ダース98セントの青いインクのボールペンで。
“Thank you!”というと、”You bet.”とウィンクして返してくれたかもしれない。
それだけのことなんだが、なんだか気持ちがこみあげてきて、胸がいっぱいになる。